寿司の消滅を救った寿司職人『中島清次郎』
歴史上の人物として名を残している方ですが、一体どんな人物だったのか?
また寿司が消滅した歴史とは一体何なのか?
簡単にまとめてみました。
目次
中島清次郎のwikiプロフィール
@tos 中島清次郎 https://t.co/3HrfyAGHAd via @070441 pic.twitter.com/WnSbFf8v6A
— ᐓ神瀬 来未ᐗ 𝓚𝓸𝓱𝓷𝓸𝓼𝓮𝓛𝓪𝓶𝓲 (@41707) September 18, 2019
中島清次郎さんは今から約130年前の歴史上の人物となっています。
東京浅草の通称「すし屋横丁」(現すし屋通り)にて北村家次男として生まれました。
そして小さい頃から寿司について触れ、大人になってから江戸前寿司職人のもとで修行し寿司職人へ。
東京都内で数店舗の寿司屋を経営するほどの人気となったようです!
当時は寿司といえば太巻きのお寿司が一般的だったようですが、中島さんがこの常識を変えました。
現在は当たり前の握り寿司。
中島さんは庶民でも食べれるように食材にも工夫して、見様見真似ではない、本物の握り寿司を庶民に提供するようになりました。
家族構成
嫁:きく
長男:清
長女:京子
次男:隆
清次郎さん合わせて、5人家族だったようです!
関東大震災を機に、東京から京都へ家族ごと一緒に引っ越ししています。
引っ越し先の京都で、江戸前寿司の店を開き繁盛されるなど、逆境にも負けない芯の強い方だったようです。
寿司が消滅した歴史があった?
実は日本から寿司が消滅するという期間がありました。
それは第二次世界大戦の戦後
1947年、GHQによる「飲食営業緊急措置令」(ポツダム命令)が施行された事がきっかけでした。
飲食営業緊急措置令とは?
決められたわずかな施設以外では、米のメシは売ってはいけない。
戦後の食糧難により、闇市で異常に高い価格で米が売られており、政府が厳しく取り締まり。
結果、米の販売禁止・米を提供する店の営業停止となりました。
今でいうマスク転売禁止をさらに厳しくした感じですね。
この措置令によって実質寿司屋が日本から消えました。
ただそれだと寿司職人たちが職を失い生きていけない。
水面下でルールの隙間をついた方法で営業はしていたようです。
米はお客さんが持ってくる
↓
その米で寿司を握って提供
↓
飲食業ではなく、加工業だから問題ない
かなりグレーな手法ですが、ルール上問題ない為、しばらくはこの形で営業を続けていたようです。
中島清次郎が寿司の消滅から救った?
お客さんの米を持ち込んだ寿司営業。
これをしっかりとした制度として認めてもらえるように、東京の鮨商組合の有志が協力してGHQと交渉。
「委託加工制度」を獲得し、寿司作りの文化を途切れさせないように尽力していました。
まま中島清次郎さんも、この活動に積極的に参加。
東京だけでなく、京都の寿司業界も守る為に、委託加工制度を京都へも導入。(東京の2年遅れ)
そして1949年に飲食営業を禁止する「飲食営業緊急措置令」が廃止。
通常の寿司屋の営業へと戻りました。
もし中島さんが加工制度として、寿司の文化を継続してなければ、「飲食営業緊急措置令」が廃止になった時に営業を開始する寿司屋はいなかったでしょう。
寿司を禁止されている中でも、寿司文化を守り続けた中島清次郎。
故に寿司を救った男として後世に名を残しました。
寿司界を救った男、中島清次郎の経歴は?
寿司の文化を守った、中島清次郎さんの経歴を以下にまとめます。
1898年~1989年 江戸前寿司と天婦羅の店「蛇の目寿し」(~平成元年)を開く。
1932年 「京都鮓商組合」の組合役員に就任
1942年 「京都鮓商組合」の組合長に就任
1947年 GHQの「飲食営業緊急措置令」により経営危機に
1949年 委託加工制度を獲得し、寿司界を救う
1950年 「京都寿司のれん会」の初代会長に就任
「京都鮓商組合」とは?
統制経済時代に於ける料飲業界の傘下にあった経営が困難なる同一業種が結託。
中央市場を中心にして魚菜流通機構の改善、市場内諸制度の明朗化、場内施設の整備、業者の社会的地位の向上を目指した組織。
そして中島さんが初代会長の京都寿司のれん会は、のれんを守り品位を高める。
会員相互の親睦を深める事を目的として立ち上げたようです。
自身の経営だけでなく、寿司業界全体を底上げしていく事に尽力していた方でした。
中島清次郎まとめ
今回は寿司を消滅から救った男、中島清次郎さんについてまとめました。
今では日本の文化として当たり前のように根付いている『寿司』ですが、偉人たちの支えがあったからこそ残った文化でした。
以上、最後まで閲覧ありがとうございました!